omochi choir

ブログを書きます

2022/7/14


今日の朝は近所に住んでいる仲良しカップルから暇ならお買い物に行こうと誘われて快諾。ちょっと気合い入れてメイクをしたら可愛くて嬉しかった

車に乗った。免許を持っている女の子たちはかっこいい。長い間運転してくれた。

仲良しカップルはショッピングモールでも常にイチャイチャしていてかわいかった。

愛はまなざしに宿ると思っている。お互いを見つめる目がすごく優しくてわたしは嬉しい気持ちになる。

わたしが写真を撮るのが好きなのはわたしが撮る人のことをどれだけ好きかって言うのが伝わる気がするからだ。まなざしの可視化としてのカメラ。でも、機械は嫌いだからカメラの設定とかかなり適当だし、用語とかわからないし、いまだに写真を撮るのが好きとか趣味とか言っていいのかな、と思っている。わたしが好きなのは人だ。

人が好きってこと、ずっとなんか恥ずかしかった。人が嫌いで、暗くて、不健全な人間がかっこいいと思ってたけど、わたしって、人が好きで、明るくて、健全だ。

初めてりくろーおじさんのチーズケーキを食べた。しゅわしゅわでほわほわで美味しかった。

げん(配偶者の人間をなんて呼ぶべきか、考えてもわからなかったのでもう普通に名前で書くことにした)は今日も優しかった。

寝付けないげんに自作の嘘のわらべうたを歌ってあげた。なかなか気に入ったけど怖いと不評だった。

ちょっと濡れたシンク周りへの関心

 

例えばさ、一昨年の今頃買ってよかったものを聞かれたら、少し高めのリップとかヘアオイルとか、そういうものだった気がしている。去年の今頃買ってよかったものとか聞かれたら、なんだろう、多分タンブラーだった気がする。お茶っ葉をいれられてお湯を入れるとねお茶を無限生成できるの。

これだな。

 

で、今年のわたしの買ってよかったものはこれ。

キッチンペーパーみたいな感じのロールになっる。なんかきれいなときは食器を拭いて汚くなってきたらシンクとか拭いて汚くなってきたらコンロ周りとか拭いて捨てる。何回か洗って絞ってを繰り返してもマジで破れない。61カットで300円強でちょっと濡れてるシンク周りを拭きたい、湿ったタオルをどこにも置いておきたくない、キッチンペーパーは不経済というわがままに応えてくれる、すごすぎる。最強だ。

 

でも3年前のわたしはちょっと濡れてるシンク周りとか本当にどうでもよかった。いや、やだったけど、でも本当に微弱な信号しか脳にこなかった。

 

大学生のとき時に見たお芝居で、主人公のお嫁さんが主婦なんだけど「野球に興味がないのに今日は◯◯(チーム名)勝ったかな?しか人生に楽しみがない。なんでだと思う?◯◯が勝つと近所のスーパーがセールになるからだよ。」って言ってもうつらいよ〜!ってなっちゃうシーンがあった。それを見て18歳のわたしは絶対にこうなりたくない!と気持ちを強く固めたのを覚えている。

 

今のわたしはこういうことがめちゃくちゃ楽しい。

 

もちろん、一生これだけを楽しみに生きろ!って言われたらマジで勘弁だけど、まあなんかどうせ生活するんだからなんでも楽しんでこ〜と思っている。

 

なんか、夢や目標って仕事やお金の稼ぎ方である必要ってないのかもなというのが最近の気持ち。まあゆるーい気持ちでアルバイトしてる人間が言うことじゃないかもだけど。そのときに楽しいことや好きなこと、楽しい人や好きな人に携われる時間を最大化できるような生き方がしたいな。

 

最近は知りたいこととか学びたいこととかがめちゃくちゃたくさんある。本を読んでてもテキストを読んでても常に楽しい。それなのにそれを凌駕する強さでペルソナ5面白すぎる。助けてくれ。やばすぎるだろ。ずっとやってしまう助けてくれ。

 

人生って楽しい〜!

なんとなく、しない(好き)(嫌い)

 

好きなものを好きな理由だったり、嫌いなものの嫌いなところだったり、そういうのを好きとか嫌いってとっても直感的なものだからこそ、別に人に言わなくても自分だけはちゃんとわかっておきたいと思う。

 

なぜ?がはっきりしてるものしかコントロールできないと思っていて、コントロールできるものは少しでも多いほうがいいと思っているからだ。

 

だから、なぜ自分はこう思うんだろう、こうしたんだろう、こう言ったんだろう、ということばかり考えている。他人のことは考えたってわからないからなるべく考えない。答えを聞いてもそれが本当かはわからない。自分について深く長く丁寧に考えれば自分なりに答えは出せる。(もちろんそれも間違ってることも多い)(かなり時間が経ってからそれに気づくこともある)

 

なるべく好きになったものは嫌いになりたくないという強い気持ちがある。でも、それは強く気持ちが動くからなので、もしそういうことがあったらもうそれについてずっと考えたい。なんとなく好きになったものをなんとなくもう好きじゃなくなっちゃったな…と思うのはつまらない、と感じる。

 

こことこことここが好きなところだ。とちゃんと認識する。あれがあって、これがあって、それがあって、その好きな部分が損なわれてしまった。そうなると私の気持ちはネガティブなものになるんだな。とか考える。

 

例えば、ユーモアがあり、センスが良くて、おしゃれなところが好きだなと思う人が、浮気とか不倫とかしてたとしても、ふーん、こういう(私にとって)嫌なところがあるんだなあ。って思うくらいだと思う。

 

でも、誠実で、人の気持ちを考えられる、穏やかなところが好きだなと思う人が同じことをしたら、好きじゃなくなっちゃうかもしれない。

 

逆(?)も同じで、後者の人が30000回流行りの芸人のギャグをめちゃくちゃつまんないのに言っていても、お〜面白いと思うものは違うんだなあ。と思うだけだと思うけど、前者の人が私がなにか言うたびに「クセが強いんじゃ〜」って言ってきたら2度と会わない可能性もある。(ちょっと古い例えかもしれない)

 

交友関係が広いね、いろんな友人がいるね、というようなことを言われることが増えてきたんだけど、それは単に全員に同じ「良さ」を求めてないからだと思う。絶対嫌な要素だけを自分なりに決めて、それがない人とはなるべく親交を持ちたいと思う。だから私の仲良しさん同士はかならずしも仲良くはなれないと思うな。趣味思考主義主張がかなり逆だなーって人たちいる。

 

嫌いな部分も同じでそこがなくなればいい人なんだけどな〜と思う人のそこがなくなれば仲良くなりたいと思うし、そこがなくなれば好きになれそうなんだよな〜って思うまあ例えばコンテンツがあったとしたら柔軟に好きになりたい。

 

なんかより多くの人やものを好きになるための考え方なのかもしれない。好きが多い状態の自分が好きだ。うん、これは学びです。

 

私の脳を整理するためのブログだから何も伝わってない可能性があるけどまあいいか。みんなもわたしの好きなところが損なわれないうちはずっと好きでいてください。

努力のコストパフォーマンス

 

年末年始、大好きだ。

みんなが少しソワソワしている。うわついている。うわついている人を見るのは大好き。怪我とかしたら危ないから怪我しなさそうなところでうわついてる人ね。これはね!大事なこと!

 

今日も5時間くらいかな。読書したり勉強をしたりした。知識欲みたいなものって本当にオシャレじゃないな、と思う。欲望の中でもなんというかどろどろして制御のかなり難しい泥臭いものだと思う。そして、どんなに人生を捧げても短い人生の中では全てを知ることはできない。どうなんだろう、なんか、パー!ってなって、全て知れました!みたいになったらウケるな。あ、もしかしてそれが悟りか?悟り、おもしれー。名前に「悟」が入ってる人めちゃくちゃプレッシャーない?平気?

 

人として、うーん、人として?人としてって広すぎるな、まあなんか、なんとなく、ちゃんとしてないのに結果出していく人ってかっこいいじゃないですか。アニメのキャラとかでも多いじゃん。ちゃんぽらんだけど最強!みたいな。でもそれってほんーーーーーーのわずかの人で、みんなそれに気付いてるのに自分がそのほんーーーーーーーーーのに入れてる気がするじゃん。別にそれはいいと思う。そういうのダサいとか言うつもりないし、そう言うことに気づいた時の無力感みたいなものについて今更言うのもさ、ねー。

 

でも、わたしは、結局何かを成したいぞ!と思ったときに一番コスパいいのって日々のコツコツした努力を積み重ねることだよなあってことに気付いた。薄々勘付いてた。それが確信に変わった年だったかもしれない。

 

バン!って100にするのも、5ずつを20やって100にするのも、100は100であって、そこへの道筋はなんだっていいし、後者の方が誰でもできるし、なかなかできないことだよなってね。当たり前のこと言ってすまんね、年の瀬に。

 

「100にする」を目標にしてたつもりが、「0を突然100にする」ことが目標になること、あるよねー。なんか始まりは一緒でも、プロセスも、結果も、全く違うものになっていく気がする。

 

うーん、まだまだうまく言葉にできないけど、伝わるかなー?

「思い立ったが吉日」ならその日以降はすべて凶日

 

 

こんなことをTwitterに書いたけれど、やりたければ今日からやればいいんだった。タイトルはトリコの名言。マジで座右の銘かもしれん。

 

区切り、を意識することは自分を奮い立たせることもあるが、逆にワッ!と盛り上がった気持ちが落ち着いてしまうこともある。

 

だから、ワッ!と思ったうちに書く。

 

ここで年内のまとめなどをしようとすると、また何を書けばいいかわからなくなるので、しない。日々の積み重ねが週に、月に、年になる、それはなかなか大事なことかもしれないぞ、と一年があっという間に過ぎちゃいましたね〜なんて雑談を繰り返す中で感じた。あっという間でもいいんだけどね、振り返ったらキラキラしたあっという間がいいよ、やっぱり。

 

こないだほんのしょうもないことで1000円弱を損した。Twitterならここは省略するけど、ブログには書く。ブログはそういうところがいいところでもあってめんどくさくなりがちなところでもあるから、しょうもないことは省略するときだってこれからくるかもしれない。でも、今日は書く。

 

定期の区間を変更したくて、有効期限はまだあと1日残っていたけど、2日後からで新たな区間の定期を買ったら、その1日分が消滅して、2日後から使える定期になったのだった。でも、その消滅した日にも定期区間を移動する用事があったからその分を普通にチャージして移動した。その運賃が1000円弱だった。

 

何言ってるかわかる?わたしは多分読み手ならわからないし、こんなことなら書かなきゃよかったな、と思ったけど、まあこのままにしておく。そういうことも大事だから。で、なんで損をしたか、はぜんぜん大事じゃないから。

 

で、それを恋人に愚痴った。わたしはそもそも交通費が嫌いだ。真っ当にかかる交通費も嫌過ぎて徒歩で移動できるなら何駅分か歩いたりするのに、そんなイレギュラー交通費にわたしのナーバスなハートちゃんは耐えられなかった。

 

こんなこと言ってもしょうがないんだけど…から始まり、そして挟み、終わり、再開し、こんなこと言ってもしょうがないことばかりを言った。

 

恋人は「じゃあ自分があなたに1000円分マッサージをするからその1000円はその対価として払ったと思いなよ」と言った。お金が無駄になったと思うからもやもやするのであってそれを自分に払ってマッサージというサービスを受けたのだ、と思えば損じゃないでしょ。ということだった。

 

マッサージ自体はいつも無償でやってくれているが、いつも無償で行っていることに価値をつけてそこで損を補填するって全然わたしは思いつかなくて、なんか、お〜って思った。

 

先日、恋人がTSUTAYAさんに延滞料金650円を払った時も「650円分のコーヒーを淹れてよ!それに650円払ったことにするから!」と言っていた。自分にも使えるらしい。

 

理に適っているかは全くわからないけど、自分からは出てこない考え方だったから、なんかこれが人と一緒に暮らす利点だよな〜と思った出来事なのでありました。

 

彼のそういうおおらかさに助けられたりそわそわしたりしているし、向こうもわたしのなにか要素にそう思ってくれていたらいいな、と感じる。

 

今年のわたしは演劇のどこが好きか考え続けて、ひとつの目標に向かって相互に影響を与えあうところだな、という答えを出し、結局それってめちゃくちゃ生活じゃん!と思った。人に影響を与えること、人から影響を与えられること、なんか生活を丁寧に…うーん…丁寧っていうとありきたりというか…いや…ありきたりでいいんだよな!うん!丁寧な生活を着実に積み重ねて影響の輪を広げたい。その方法や責任とかについて考えています。今は。

 

丁寧に、真摯に、誠意を持って。これしかないな。ウンウン。心の皮膚に刻もう。心タトゥー。

 

結局今年のまとめと来年の抱負になってしまう。仕方ないね。街や社会がわたしに影響を与えているのだ。

 

骨折ってメイクマネー

 

少し疲れてくると友達に

 

お前はいつも損ばかりしているね「MCほねくた」としてラップをやった方がいいよ。

 

と言われたことを思い出す。

 

ほねくた、は骨折り損のくたびれもうけ、の略だ。

 

正直、わたしはかなり意図的に骨を折りに行っていて、折れた骨のなんだろう、断面の美しさにニンマリしたりしているのだ。きっとこれからもそういう自分は変えられない、どうしようもない性質のようなものを感じる。

 

でも、損はしたくないし、くたびれも儲けたくない〜!

 

というか、わたしのことを好きな人たちが、そんなわたしのことを可哀想、と思ってくれるのに耐えられない。

 

ので、今後は骨折ってメイクマネーの精神でやっていきたい。自分が納得してるものとか、好感持ってる人のためとかだったら、身体中の骨が粉々になってもきもちいい〜!って思える、というか、思えちゃうから、せめて損はしない。骨を折った分、儲ける。

 

人のして欲しいことをして、言って欲しいことを言って、誰よりも悲しんだり、誰よりも傷ついたりしても、誰よりも豊かになる。絶対。

 

自分を可哀想にするのはいつだって自分だと思う。いや、自分でありたいと思う。だから、だったら、そうさせないってこと。わかる?

損得

今日外の広場みたいなところでご飯を食べてたら強い風が吹いてきて、自分の食べたもののゴミが落ちちゃった!

 

あらあら、まずいまずい、と思って拾った。ふたとか、割り箸の袋とか。で、よく見たらおにぎりの袋のはしっこも拾ってて、わたしはおにぎりは食べてないので、わたしのゴミじゃなかった!

 

そのときなんか「損した〜」と思った。それがなんでかなあ、って5時間ぐらい考えてた、今日。

 

自分の労力を自分の責任外のものに使ったからだと思うんだけど、でも、体力が可視化されるゲージになってたとしても1すら減らないような労力だったのに、明確に、うわあ、損しちゃったな、と思った。

 

なんかそんな自分がちょっと嫌だったのかも。ゴミぐらい喜んで拾ったらいいのに。自分のゴミを拾うことによって誰にも拾われなかったゴミも拾えてラッキーみたいな!

 

ていうか、ラッキーとかラッキーじゃないとか損得勘定でばっかり動いてるのってなんかつまんないかも…。

 

ていうか、あらゆることを自分を勘定に入れないって賢治ってまじでやべー。わたしもそうありたいと思ってるけど、うーん、でもやっぱり、あまりにも自分を勘定に入れなすぎると、わたしを勘定に入れてくれてる人が代わりに怒ったり悲しんだりしてくれるから、それってなんかそれももしかして嫌かも?って思ってきてる、ここ数年。


損得勘定のこと、損得感情だと思ってて、損したなあ、とか、得したなあ、とか考える気持ちのことだと思ってた。こどものとき、かわいいー。