ウチらでいたら最強じゃん
今日も本を売った。本を買う人に本を売るのは楽しい。
本屋の仕事の楽しいところは比較的暇で比較的脳が自由なところだ。考えごとをするのに最適な仕事だと思う。
写真が好きだ。写真はすごい、時間を切り取っていて、それを見るだけでそれを撮った時の空気感とか、匂いとか、一緒にいた人の顔とか、声とか、思い出す。
なんかたぶん「エモい」という感覚はノスタルジーにかなり近くて、そして別にそれを自分が体験している必要がない。誰かのノスタルジーに言い方は悪いけどタダ乗りしたときに感じるのがエモなのかな、と思う。なんかいい感じの「あるある」というか「ありそうありそう」それがエモの正体なのではないか。
わたしは流行ってる言葉が大好き。勝たんも優勝もエモいも、みんなにバー!と流行って、いつか誰も使わなくなるかもしれないし、定着するかもしれない。
わたし自身はそんなに使わないんだけど(使う機会がない)「場面で」っていうのがすごい好きで、「今は決めないけどそのときの気分で決めようよ、ウチらでいれば何してたってどうせ楽しいっしょ」みたいな空気感がこの短い言葉に表れてるのがすごくいいと思う。
場面場面で判断していきましょう。と、場面で!はもう全然違う言葉で、それがすごい、意味はまあなんか同じなのに、でもニュアンスっていうかさ、味付けが全然違うよね、おもしろい。
言葉のせいで不自由を強いられてる〜!!!お前の引いたレールじゃないところで思考してやる!!!お前を超える!!!って思うときもあるけど、言葉…お前には敵わないよ…お前の奴隷さ…って気持ちにすぐなってしまうね。
こうふくなおうじ
わたしの中ではまだ膿んでいる傷口が、いや、表面は閉じているように見える、その傷口が、彼/彼女の、一度瘡蓋になって、その瘡蓋が剥がれて、新しい皮膚に変わったような、自然な痕を見ることでひらく。
その自然な痕が彼/彼女にとっては隠すまでもないような、すでに過去のもので、まるで勲章であるように見受けられる。そのことにひらかれた傷跡はさらに抉られていく。
怪我をしたときよりよっぽど痛かったりする。
わたしにとっては現在進行形のことが、だれかにとってはとっくに過去のことになっている。わたしにとってはとっくに過去のことが、誰かにとっては現在進行形で続いている。
そして、そうじゃなくても、そう感じていること、感じられていること。
想像したら結局きりがない。あまりにもたくましい想像力はひたすらに他者に優しく自分を傷つけるときがある。もちろん逆のときもある。想像力はフラットになるために使ったほうがなんとなく健康な気がする。少なくとも私は、だけど。
とはいえ、どこにいようと地続きで生きている。
起きることすべてに理由があるわけではない、理不尽があり、不条理がある、でも、それもすべて同じ道の上にある。
このことを考えると、なんだか救われた気持ちになって、そしてなんだか人に親切にしたいな、と感じる。
なんだろう、過去の箱と今の箱と未来の箱があるわけじゃなくて、ひたすらに長い道があってそこをみんなが歩いている。その中で立ち止まったり、走ったり、遡ったり、出会ったり、している。時間に関係ない道、時間の道はどんな時でも逆にはならないし、止まらないし、動いている。
だから、なんか、大丈夫だよ、って思う。自分にも、人にも思う。でも、歩き出したいのに立ち止まったまま動けないって人がいる。今さら歩き出したって仕方ないって思ってる人もいる。今は立ち止まっててもいいのに歩かないと置いていかれちゃう〜!って泣いてる人もいる。
そういう人たちが歩き出したり、歩き出してみようかなって思ったり、ちょっと休憩しても大丈夫なのかなって思ったり、そういうふうに思えるための手伝いがしたい。
幸福な王子にならないで幸福な王子と同じことがしたいんだな、わたしは。私が幸福な王子になると泣く人がたくさんいる、それはとても嬉しくて、光栄なことだ。
原宿が近くなっても
たしか中学生のとき。両親の友人のおうちに遊びに行ったら少し年上のお姉さんがいて遊んでもらった。彼女のお部屋には貯金箱があって「貯金して原宿に行く!」と張り紙がしてあった。
そのときのわたしは原宿って…あの原宿か…!?と思った。あのテレビで見る、キラキラした、めちゃくちゃ遠い、東京の、原宿か!?と思った。
わたしのお家もそのお家も神奈川県にあって、少し電車を乗り継げば1時間とちょっとで着くんだけれど。なんだろう、原宿は実際の距離をはるか超えて遠い遠い場所だった。
今は都心で働いていて、住んでいるところから15分くらいで渋谷にも新宿にもいける。
知ることは不可逆で、それがたまにすごく寂しくなる。原宿がずっとずっと遠い、外国みたいに遠いところだ、という風にはきっともう思えないもんな。
ためになる漫画をいくつかあげなきゃいけなくて思考の手助けに検索してみよう!と思った。「ためになる 漫画」と検索したら「どうせ読むなら勉強になる漫画を読もう!おすすめ◯選!」という記事が出てきて、グオー!と思った。
理由、とか、意味、みたいなものがちょっと幅利かせすぎかもしれんな。
漫画なんか別になんの意味も理由もお役立ちもなく読んでいいだろ!(そもそも調べてるわたしが言うのも説得力ないですね)
結局、やりたいこと、やらなきゃいけないこと、やってること、全部「どうせ生きるなら◯◯しよう!」だな。生きることに意味も理由もお役立ちもなくていいし多分ないなあと最近思っている。
親密な人間に対して、わたしで変わって欲しい、というのは、要するにわたしを理由にして欲しい、わたしに(あなたにとっての)意味を与えて欲しい、ということなのかもしれないね。
意味も理由もなくてもそばにいて、ずっと仲良しでいようね、って好きな人たちに思った、いま。
鼻が尻の時世
これは全然嫌な気持ちがしたとか、糾弾したいとかではない。
不穏な前置きだな〜。
つい先日誕生日を迎え、27歳になった。おめでたいことだ。SNSでみんなが祝ってくれた。人になかなか会えない時世だが、会ったこともないSNSの人たちはいつも優しくて、とても大好き。
そのなかでわりと「(27歳なんて)そんなふうに見えない」とか「若く見えるね」みたいなことを言われて、わたしは、びっくりしたのであった。
27歳ってもう『そんなふう』とかそういう感じのアレなの!?!!?!!!?
27歳まだ普通に若いと思ってたし、生後1週間の子に産まれたてみたいですねっていうのと同じことでは?って感じ。
でもなんか年齢ってウケるな〜。1年経つごとに刻まれて、そもそもその1年みたいなのも人が勝手に作った区切りだし、おもれ〜。
もし18250日で1歳だったら0〜50歳まで全員タメだもんね。クスクス。
わたしは言葉が大好きなんだけど、言葉に信頼を置きすぎると言葉の与えた情報だけで全てを判断しちゃうな、と思う。思考にも言葉を用いる以上言葉の方が思考より先ということになる。
電車の中でマスクから鼻を出していた若い男性に初老の男性が「お前!そんなの人前でケツ出してるのと全く同じだからな!恥ずかしくないのか!ケツ出してるんだぞ!」って大声で注意していた。
マスクで鼻を出していることが人によっては臀部を曝け出していることと同じになるところまできたんだな。すごい、生活様式みたいなものの急速な広まり方めちゃくちゃだな。わたしはマスクもするしワクチンも打ったけど、このなんか、この、こういう感じにビビってないわけじゃない。
その初老の男性を見て恋人が「大事な人が感染症で亡くなったのかな…」って言っててそういう視点で世の中を見てる人と一緒にいるのはなかなかいいなあと思った。
誕生日に寄せて
9/14 27歳になった。
26歳のわたしは人前で何かパフォーマンスをすることが一度もなかった。(パフォーマンスをした映像を見てもらう機会はあった!)
おそらく初めて舞台に立った11歳のときから、そんな年なかったな。だけど、不思議と、というか、なんというかアイデンティティが揺らぐような感覚は一切なく、むしろ自分がどうして演劇をしていたのか、何を得ようとして、何を与えようとして、演劇を選んだのか、なんとなくわかったような、思い出したような、そんな一年だった。
専門的に勉強したことといえば演劇しかないし、多分趣味の時間とか、遊ぶ時間とか、そういうのも演劇に費やしてきたと思う。
小学校の卒業アルバムの文集、将来の夢は「俳優になること」。その理由は「明日、自殺しようとしている人がいる。私には金も力もないのでその人たちを救えない、でも、もしもそんな人に作品が届いたなら、思いとどまれるかもしれない、そんな力が演劇にはある、という人の言葉に感激し、そんな演劇がやりたいと思ったから」というような感じだ、と書いてある。20歳そこそこになってそれを読んだわたしは、ふーん、と思った。ほんとかよ!とも思った。
でも、本当だったなって今年を過ごして思った。わたしは人に影響を与えたくて演劇を始めたんだ、そして、影響を与えさせてくれた人からの影響を受けたかったんだと思う。
演劇にはカーテンコールというものがある。芝居が終わり、役者が舞台に並び、感謝をし、拍手をもらう。そんなもの。その拍手はもうなんか幸福とか達成感とかなんかそういうものが可視化できる濃度で自分を包み込む。作品(またそれを構成する要素としての自分)が与えた影響の反響。
昨今のマイブームである生活はそれの最小単位だ。一対一で影響を与え合う。恋人、友人、家族。そして、生活にもカーテンコールのような瞬間はくる、そんなに大袈裟じゃないけど、大事にしたいような瞬間が折々にある。
今年は個人で起こせるその波をもう少し広げていきたいと思う。どうやって、かはわからない。まだ。
去年の目標は
誕生日‼️
— 🎉おもち"バースデー"合唱団🎉 (@mochigasshodan2) 2020年9月13日
26歳になった‼️
去年の誕生日の時期から良いことも悪いことも全部が予想外で、でも今のわたしが一番自由で一番かわいいと感じる。
26歳の目標はわたしが満足いくわたしで居続けそのわたしだけの力でみんなをなんかおーってさせることです。
何卒宜しくお願いします!頼む!祝ってくれ! pic.twitter.com/BAmUOiwsro
だった。
わたしが満足いくわたしで居続けること、それはなかなか達成したんじゃないかな。と思う。あと、もう一つの目標である、わたしだけの力でみんなをオーッ!とさせる、というのはまだ全然達成していない。からこれは継続だな。
今年の目標は
誕生日だ❕27歳になれた❕
— 🎉おもち"バースデー"合唱団🎉 (@mochigasshodan2) 2021年9月13日
目標はもっと確立していく。です❕
前進あるのみ🐼
祝っちくり〜〜〜🎂 pic.twitter.com/AGSRGZMSwn
自分自身の全てを確固たるものに確立していきたい。考えたことを言葉にする、形にする、積み上げる、還元する、その結果がオーッ!に繋がればなおよし、かな。
家族、恋人、友人、気にかけてくれている全ての人々のおかげでなんでもないわたしはしゃんと立てている。感謝だな。これからも態度だけは一丁前でやっていくぞー。
連想ゲームの一端になりたい
・個人的でなく悲しいことやつらいことが多すぎて、ブログを書くのをやめていた。
・毎日書いてたのに!
・生活は社会と直結しているが、社会についてそこまで言及したくない、でも、生活について書くことは社会について書くことだ、どうしても。
・社会は相変わらず悲しいことに満ちていて、悲しい気分の人たちで満ちていて、わたしも悲しいけど、でもわたしの生活は滞りなく続いている。
・Twitter大好きなんだけどそこまで内面的なことだったりそういうの書くのは違うかな〜みたいなね。たくさんポストする気にもならないというか。すごい人目に触れるじゃん。あんなん玄関だよ。玄関に日記置いとく人多分いないと思う。
濃厚とろ〜り月見、ネオバターロールの一番うまい部分みたいなパンにたまごとベーコンとチーズと肉が挟まってるから頭のおかしい小学生になっちゃうかと思ったよ
— おもち合唱団 (@mochigasshodan2) 2021年9月11日
・玄関にはこういうことだけを書きたい。
・楽しい話する
・もうすぐ誕生日〜!いえ〜い!
・初めてほしい物リストというものを公開して、なんかいろいろ送ってもらって嬉しい。
・普通に会う友達もリストを参考にしていろいろ送ってくれたりする、嬉しい。
・なんか住んでる都道府県が分かっちゃう?らしいけどまあ普通に都内だからいいです。だめか。ガッハッハ。
・気にかけてくれてる人がいる、というのがすごく生きるモチベーションになるな、と思う。気にかけられたいな。どうしてるかな?と思われるのが好き。
・だからユニコーンを見たときに思い出したよ、とか。カービィを見たときに、とか。そういうのもめっちゃ嬉しい。
・連想ゲームの一端を担わせてくれ。みんなの。
・だから、わたしもみんなのこと気にかけたい。何が好きか覚えてたいし、何が嫌いかも、どういうことをされたいとか、されたくないとか、住んでるところとか、好きな食べ物とか、覚えてて、なんかたまに、さりげなく、だもんね?みたいなこと言いたい。
・もしかしてこれきしょいか?
■
・個人的でなく、つらいことや悲しいことが多すぎる。
・何度も書いているけど、個人と社会は地続きで、自分のことを考える時社会のことは切り離せない。どんなに小さな選択や決断でも。
・でももうほんとにちょっとしんどくて考えるのは考え続けるんだけど、なんのアウトプットもできないな。
・だからちょっとブログも休みます。
・書きたいことがあるときは書きます。
・さようなら…