omochi choir

ブログを書きます

こうふくなおうじ

 

わたしの中ではまだ膿んでいる傷口が、いや、表面は閉じているように見える、その傷口が、彼/彼女の、一度瘡蓋になって、その瘡蓋が剥がれて、新しい皮膚に変わったような、自然な痕を見ることでひらく。

 

その自然な痕が彼/彼女にとっては隠すまでもないような、すでに過去のもので、まるで勲章であるように見受けられる。そのことにひらかれた傷跡はさらに抉られていく。

 

怪我をしたときよりよっぽど痛かったりする。

 

わたしにとっては現在進行形のことが、だれかにとってはとっくに過去のことになっている。わたしにとってはとっくに過去のことが、誰かにとっては現在進行形で続いている。

 

そして、そうじゃなくても、そう感じていること、感じられていること。

 

想像したら結局きりがない。あまりにもたくましい想像力はひたすらに他者に優しく自分を傷つけるときがある。もちろん逆のときもある。想像力はフラットになるために使ったほうがなんとなく健康な気がする。少なくとも私は、だけど。

 

とはいえ、どこにいようと地続きで生きている。

 

起きることすべてに理由があるわけではない、理不尽があり、不条理がある、でも、それもすべて同じ道の上にある。

 

このことを考えると、なんだか救われた気持ちになって、そしてなんだか人に親切にしたいな、と感じる。

 

なんだろう、過去の箱と今の箱と未来の箱があるわけじゃなくて、ひたすらに長い道があってそこをみんなが歩いている。その中で立ち止まったり、走ったり、遡ったり、出会ったり、している。時間に関係ない道、時間の道はどんな時でも逆にはならないし、止まらないし、動いている。

 

だから、なんか、大丈夫だよ、って思う。自分にも、人にも思う。でも、歩き出したいのに立ち止まったまま動けないって人がいる。今さら歩き出したって仕方ないって思ってる人もいる。今は立ち止まっててもいいのに歩かないと置いていかれちゃう〜!って泣いてる人もいる。

 

そういう人たちが歩き出したり、歩き出してみようかなって思ったり、ちょっと休憩しても大丈夫なのかなって思ったり、そういうふうに思えるための手伝いがしたい。

 

幸福な王子にならないで幸福な王子と同じことがしたいんだな、わたしは。私が幸福な王子になると泣く人がたくさんいる、それはとても嬉しくて、光栄なことだ。