原宿が近くなっても
たしか中学生のとき。両親の友人のおうちに遊びに行ったら少し年上のお姉さんがいて遊んでもらった。彼女のお部屋には貯金箱があって「貯金して原宿に行く!」と張り紙がしてあった。
そのときのわたしは原宿って…あの原宿か…!?と思った。あのテレビで見る、キラキラした、めちゃくちゃ遠い、東京の、原宿か!?と思った。
わたしのお家もそのお家も神奈川県にあって、少し電車を乗り継げば1時間とちょっとで着くんだけれど。なんだろう、原宿は実際の距離をはるか超えて遠い遠い場所だった。
今は都心で働いていて、住んでいるところから15分くらいで渋谷にも新宿にもいける。
知ることは不可逆で、それがたまにすごく寂しくなる。原宿がずっとずっと遠い、外国みたいに遠いところだ、という風にはきっともう思えないもんな。
ためになる漫画をいくつかあげなきゃいけなくて思考の手助けに検索してみよう!と思った。「ためになる 漫画」と検索したら「どうせ読むなら勉強になる漫画を読もう!おすすめ◯選!」という記事が出てきて、グオー!と思った。
理由、とか、意味、みたいなものがちょっと幅利かせすぎかもしれんな。
漫画なんか別になんの意味も理由もお役立ちもなく読んでいいだろ!(そもそも調べてるわたしが言うのも説得力ないですね)
結局、やりたいこと、やらなきゃいけないこと、やってること、全部「どうせ生きるなら◯◯しよう!」だな。生きることに意味も理由もお役立ちもなくていいし多分ないなあと最近思っている。
親密な人間に対して、わたしで変わって欲しい、というのは、要するにわたしを理由にして欲しい、わたしに(あなたにとっての)意味を与えて欲しい、ということなのかもしれないね。
意味も理由もなくてもそばにいて、ずっと仲良しでいようね、って好きな人たちに思った、いま。