omochi choir

ブログを書きます

やさしさはそこに流れている

・わたしは自分を優しいと思っていたけれど、いや、優しいを上手に使えていると思っていたけれど、実は全然そんなことありませんでした〜みたいなネタバラシをされるような時期が何年か前にあった。

 

・優しさをうまく作用させることができなかった、という悔しさもあるけれど、どちらかといえば他者にはちゃめちゃに優しくしてもらったからだ。

 

・優しさはわたしを長い間縛ってきたものだった。

 

・わたしは自分のことを「優しさしか取り柄のない人間」だ、と思っていて、それに悩んでいた。

 

・だけど、わたしの優しさは他者との摩擦を軽減させる緩和剤みたいなもので、臆病だから、他者との間に一枚噛ませるような、そういうものだった。

 

・あのときのわたしはたくさんの人に無条件に優しくされて体温と同じ温度のお湯にずっと使っているみたいな気持ちでたくさん泣いた。

 

・わたしは人をそんな気持ちにできたことがあるんだろうか。そのお湯の中でわたしはたくさん泣いて、たくさん考えることができた。そして、その中でわたしは悲観的にも、楽観的にも物事を捉えることができた。

 

・自由だった。優しくされると人は自由になれるんだな、というのは気付きだった。

 

・優しさとは流動的なものなのかもしれない。と思う。

 

・人に与えた優しさはわたしの持ち物などではなく、ずっとたゆたっていて、それを形にして、与えたり、見せたりする。それにはおそらく得手不得手がある。

 

・優しさを持ってない人なんかいなくて、逆に人より多く優しさを持っているような人もいなくて、取り扱いが上手い人と下手な人がいるだけ。

 

・優しさを与えられた人は、それを他の誰かに与えたり、見せたりする。要領よくそれができない人もいる。でも、ないわけじゃない。なんかそういう流動的なものなんだな、と思った。

 

・優しくしてくれた人たちにいろんな形の優しさを返したいと思う。これから会う人たちにも、いろんな形で優しさを示したいと思う。関係性の緩和剤としての優しさではなく、ただそこにあるような、ふわふわのお布団みたいな、そういう優しさをこれからは与え、そして求めたい。